2022年8月19日更新

大阪にゆかりのある選手に聞いてみよう!松本義和選手-柔道(パラリンピック)(3/3)

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自分にとって柔道とは…

記者.柔道のしんどい、たのしいがあったが、そのスポーツのだいご味は?楽しいところは?

松本.さっきも言いましたが、一人でできることです。健常者の中にそのまま入ってやれます。3年前に5段を取りました。修道館に通っていて、今は練習生ではなく、指導員になっています。周りは健常者ばかりです。

なんとなく始めたの柔道ですが、自分の社会人人生はずっと柔道です。もう還暦が近い、この年令になって今でもやっていることは楽しいと思います。いや「楽しい」を通り超えた「人生そのもの」になってしまっています。

人生の総決算

―パラリンピックは障害の度合いに合わせて金メダルがある―

記者.目標やいきがいは?

松本.もう59歳です。東京で引退するつもりでした。陸上や水泳はパラリンピックでもかなり絵にはなります。陸上男子100mでボルトが2大会連続優勝。もっと昔だとカールルイスとかが有名ですよね。でもパラリンピック100mはあまり知られていません。それは金メダルが15個あるからなんです(一人が優勝者ではないからです)。

視覚障害者だけでも、カテゴリは全盲・光覚・弱視と3つあり、車いす選手も背中で折れた人、腰で折れた人などで運動能力別に、カテゴリ分けされています。

―柔道にカテゴリーわけがなかった時代―

松本.また、走る人でもどこまでが義足なのかによって能力がかなり違うので、カテゴリをわけています。膝があるかどうかで全然能力が違う。なので、カテゴリが分かれるんですよ。

パラリンピックには15個の金メダルということは知ってほしいですね。こういうことも世の中に知ってほしいのです。

でも、柔道に関してはそのカテゴリ分けがありません。柔道に関しては僕の周りから見ると全盲の人しかいないと思われているようです、僕しか知られていませんから。でも弱視が人が多くて、上位に行く人はたいてい弱視の人で全盲じゃありません。

―レベルアップしていく大会―

松本.大会というのは徐々に認知度も上がり、どんどんレベルアップします。どの競技も関係なくレベルアップしています、認知度が上がるからです。4年経過するごとに倍々ゲームになっています。

東京オリンピックに関してはレベルが上がりすぎて、最初からメダルは遠い存在となっていました。実際ボロボロに負けてしまいました。でも、大会に出たいというのが目標だったからそれでよかった。それで引退する。そう言いたかったのです。

―次回のパラリンピックから分かれる柔道のカテゴリー―

松本.でも大きな情報が入りました。次回のパリパラリンピックからは全盲と弱視が分かれることになったのです。それはかなり大きいことだと思います。

柔道は体重別で7階級あり、それぞれ12人ずつしか出場できません。僕は12人のうち、11位だったので上位は目指せないと思っていました。でも、全盲だけで見ると世界ランキング3位です。この強さのままで頑張れば、メダルを狙えます!

かなりいい歳です。実際あと4年待たなければならなかったら心は折れていました。でも、東京2020が1年延期で更に年もすでに超えているので、あと実質、次のパリパラリンピックまで2年しかありません。

なので、やっとこそまともに試合ができる環境が整ってきたのです。ちなみに、7階級あったものが4階級に変わります。100kg級と言うのに所属していたがそれがなくなり、90kg級になった。60kg、73kg、90kg、90kg超の各クラスになりました。

―目標―

松本.このまま100㎏越えで参加してもいいがもっと強い人間で体重の重い者がいる。これから体重を増やして強くなることを考えるよりも、90㎏以下に減らしてカテゴリを落とすことに注力したほうがいいのではないかと思い、体重を落としているところです。いまは90㎏になっています。パリが目標です。

これは、もはやまとめです。僕の柔道人生は最初から最終目標みたいなものを設定していません。目の前にニンジンをぶら下げてもらっている状態で、これまで常に何か変化が起きて、それを目標にしてきました。

協力してもらえたありがたさ

―コロナでトレーニングできるところが閉まる―

記者.周りの方々の応援支援協力を感じることはありますか?それはどんな時でしょうか。

松本.東京パラリンピックのときに、コロナの緊急事態宣言がでて、いろんなものが閉まり始めました。3月一日から柔道場も閉まり、3月15日にパラリンピックが1年延期になりましたが、練習しないとだめなのに練習場所がありませんでした。トレーニングも2箇所のトレーニングセンターを利用していましたがそこも閉まっていました。

自宅のトレーニング室を使って一人で筋トレしました。そこしか場所がなかった。毎日ひとりでやっていると気が滅入ってきてつらかったですよ。仕事もここでしているし、やらないといけないししんどいし辛かったですよー。

―外での運動の解放感―

松本.5月頃かな、息子と公園に行こうという話になりました。インターネットで「大阪市 筋トレ公園」で検索したら、梅田の中津南公園というのが出てきました。街の中の公園でした。息子と共に週3回ぐらい通っていましたね。外で運動できるのはものすごい解放感ですわ。

来る日も来る日も一人で室内でやるのは本当に辛かったので開放された思いがしました。

ちなみに家の裏の公園や長居公園にも筋トレを屋外でできる場所があります。近所の「鶴ヶ丘児童遊園」という小さな町の公園で、最初だけ息子と一緒に行って、トレーニングしてみました。コロナの年の夏から、そこでも運動しました。

子供たちが走り回るお母さんがたくさんいる児童遊園で、こんなおっさんが練習している姿を想像して、通報されるのではないかと思いながらの運動でした。

―限られた練習場所―

松本.練習するところがなくて、西成にある栗本道場というところが知り合いだったので、練習することができました。数名の仲間で1年間ずっとそこでやっていました。他はすべて閉まったままでした。

―練習とコロナ禍の危険とのジレンマ―

松本.コロナ禍で危険なのでトレーニングセンターなどが閉まっていて、でも練習はしないといけないというジレンマがあり、パラリンピックに出るのにコロナを無視してお願いを出していいのかどうか、ずーっと悩んでいました。1年くらい悩み、「人数も少ないから練習に付き合ってくれ」というのも言えません。コロナ禍で何を言っているんだという非難を受けそうな感じてして躊躇しました。

―練習のお願い―

松本.パラ直前の3ヶ月前に辛抱ができず、周りにお願いを出しました。Facebookとかラインとかいろんなものを使って。そしたら柔道関係者が何人か集まってくれました。ずっとは来れませんが、2週間に1回とか、いろんな形で練習相手をしてくれました。嬉しくて嬉しくて。相手もいない、場所もない状態でしたから、最後の最後にそうやっ集まってくれて。

―テレビでの呼びかけ―

松本.また、報道ランナーというテレビ番組で「練習場所に困っている」と訴えかけたら、それを観た大学生が、ホームページを見て電話をかけてきてくれました。摂南大学の柔道部の学生でした。ぜひ来てくれと言われて、涙がでるほど嬉しかった。ほんとに嬉しかった。困っている時に助けてくれる。もう、ほんとにうれしかったです。

―小さな子どもからの声掛け―

松本.もう一つは、裏の公園のトレーニングは開放感がありそれはそれでいいのですが、一人でやっていると辛いんですよ。心が滅入ってくるんです。周りがいるから一緒にできるのであって、テンションを保つことが一人ではできません。筋トレなんかはほんとにやれない。

6月頃から行きだして1月頃のこと。児童公園で遊んでいた小さな子供が「パラリンピックをがんばってくださいね」と言ってくれたのです。「ええ??」ってなりました。「何で知ってるの?」と聞いたら、12月にね、毎日新聞の「おおさか子ども元気アップ新聞」が52万部配布されて年4回の発行されるのだけれど、その子供新聞に掲載されて、小学生全員に配られたそうなんです。それで声をかけてもらったようです。涙が出るぐらい嬉しかった。

―小さな応援団からの手紙―

松本.いつだったか、パラリンピックに行く前日に手紙が来ました。「頑張ってください」という手紙でした。一人で練習している自分に声をかけてくれた小さな応援団。嬉しかった。元気が出ました。パラの帰阪後に、読売新聞で負けて帰ってきた自分の取材がありました。その子の話を取材で話したら記事になりました。その記事が出た新聞をその子に届けてあげたりということもありましたね。

街をあるいていても色んな人が声をかけてくれることはあります。でも道で困る時に声がかかるのはほんとに嬉しい。相手にはわからないかもしれないけども感謝している。なんでもそうですよね?

障害があるゆえに頑張ろうという気持ち

記者.自身の障害がお仕事や活動などで肯定的に感じるときはありますか?

松本.障害があるがゆえに頑張ろうという気持ちになる。やっぱり、周りに負けたくない。

記者.エネルギーの源になっているんですかね。

松本.障害があるがゆえに、頑張ろうということになっていますね。経済的とかいろんな意味で、負けたくないという気持ち。頑張る原動力になっているのは確かだと思います。

障害というのは別世界と思っていた子どものころ

記者.障害にまつわる。子供の頃の思い出話はありますか?

松本.子供の頃は障害者というのは別世界の話だと思っていて、それは偏見なんですけれど、当時の世の中の教育の影響だと思います。まぁ、自分のせいも含めてだけど。

今はこういう立場になりましたので、小学校や中学校の講演会に呼ばれると、積極的に行くようにしています。なぜかというと、小学生ぐらいの時に一度でも、障害者と接していれば、絶対、偏見が少なくなると思っていますから。

―自分みたいに苦しむ子を出さないために―

編集部のメンバーとともに

松本.仮に僕が小学生や中学生の頃に、自分みたいな人間が、公演とか来てくれて、触れ合うことができていたら、たぶん、僕はあそこまで苦しまなかったと思います。

小学校で講演会のあとにみんなと握手をしたりいろんな感想をみんなから聞かせてもらったりする。そうすると絶対将来、違ってくると思います。

自身の障害じゃなくて、結婚しようとする配偶者とか、兄弟や親が障害者になるときも、絶対に違うと思うから僕は公演とかには積極的にいかせてもらっています。自分が子供の頃に出会えなかったというところから。

記者.プラスになることが多いということなんですね。

松本.僕は「困っているんです、助けてください」と話を訴えかけても何も心に響かないと思っています。逆に、マイナスなイメージの植え付けになってしまう。

僕が講演会をすると、元気をもらえると言われることが多くて、そういうことがいいと思います。苦しい時こそチャレンジしたほうがいいのではないかという話をよくします。

―ルートヴィヒ・グットマン博士の言葉―

松本.グッドマン博士という方がおられます。1948年ロンドンオリンピックと同時にロンドンにあるストーク・マンデビル病院で戦争で障害をおった車いすの人たちによるアーチェリー大会が博士の提案でありました。パラリンピックの起源と言われています。彼が残してくれた言葉があります。

「失われたものを数えるな。残っているものを最大限活かせ。」という言葉です。

―大人になってから知ったこの言葉―

松本.僕はパラリンピックに出るようになって、この言葉を知りましたが、僕は正にこの言葉のとおりに生きてきました。目が見ないことをごちゃごちゃいわない。残された能力で仕事でも歩くことでもなんでも――。僕は、そうやって生きてきました。

最近、講演会の中でも子どもたちによく言うんですよ。これはなにも障害だけの話じゃないと。いろんな環境の中で、例えば、家が貧乏だからどうのこうのと、みんな自分ができない言い訳ってするじゃないですか。そんなことをいうよりも与えられた環境の中で、どのように上を目指して頑張っていくか、だと思うんですよ。この言葉を引用しながら、僕はよく講演しています。そして、今も、この言葉のとおり生きています。

――そのほか、手紙をもらった話、戦争とオリンピック・パラリンピックの問題、いろんな楽器の話やオカリナ実演、モノづくりの話など多岐にわたってお話しくださいました。松本さん、ありがとうございました。

シドニーパラリンピック銅メダルの記念。

お知らせ

●アイワ松本治療院

http://aiwa3.sakura.ne.jp/index.html

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ペルオンとは?

ペルオンはホープグループ、ミッション株式会社を母体にしたペルオン実行委員会が制作してるポータルサイトです。

障害の当事者が作る当事者目線のサイトが作れないかと思い、サイトを立ち上げました。ペルオンという名前はPersonnes handicapées(ペルソンヌ・オンディキャピー)の略で、障害者仲間という意味からとりました。

当事者会・支援団体・家族・地域・職業・年齢などの枠を超えて、障害者に関係する全ての人が連携して、さまざまなことにチャレンジし、障害者の可能性を探ってまいります!

ペルオンに興味を持ったあなた!もうすでに、仲間なんです。

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