2022年8月19日更新

大阪にゆかりのある選手に聞いてみよう!松本義和選手-柔道(パラリンピック)(1/3)

東京パラリンピックでは柔道でご活躍のオルソグループ所属の松本義和選手へのインタビューです。スポーツの魅力や障害にまつわる自己受容の話など、さまざまなことをお聴きしてみました。

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柔道着姿の松本選手

記者.よろしくお願いいたします。簡単な自己紹介と活動紹介をお願いします。

松本.生まれが1962年6月30日。現在が59歳。16歳で高校のテニス部に入り、高校1年で眼科にかかり、緑内障と診断されて。2年生でクラブをやめました。そこから4年、20歳の時に全盲になりました。

全盲になって生きていくために、20歳の春に大阪府立盲学校に入りました。現在の大阪府立大阪南資格支援学校です。鍼灸マッサージの資格取得のために入りました。

そこに入ったときに、たまたま先輩から誘われ柔道を始めることになりました。

柔道の魅力とマラソン

松本.柔道はさほど盲学校でやってはなかったんです。4年間、体を動かしてなかったので体を鍛えたいという思いから始めました。学校には他にもクラブはありましたが、視覚障害者のスポーツはサポートが必要なスポーツがほとんどです。陸上でも伴走者がいる。でも 柔道は自分一人でできる。もちろん練習は人と一緒にしますけど、サポーターは必要ないところに、魅力を感じました。いまだにそこに魅力を感じています。

僕はもともと走るのが好きだったので、今でも視覚障害者のマラソンチーム(長居わーわーず)で走っています。目が悪くなった頃は、人の手を借りるのがすごく嫌だったのでしませんでしたが、のちに、視覚障害者として生きているうちに、自分が生きていく中で、いろんな手助けやサポートを受けるというのが苦にならなくなってきました。今もマラソンを続けています。

柔道とのつながり

―なんとなく続けていた柔道から、そのつどの目標になった柔道へ―

松本.盲学校で3年間を過ごしました。近畿の盲学校は10校程度ありますが、そこで近畿盲学校柔道大会があり、その大会の出場を目指しました。盲学校を卒業してからは、国家試験を受けて、鍼灸マッサージ師として生きてきました。

盲学校ではクラブで柔道をちょこちょこやっていた程度で、続けるかどうかもあまりまったく考えていませんでした。盲学校を卒業したら、フツーに辞めると思っていましたね。

それでもとりあえず3年続けました。ただ、卒業翌年にたまたま開催が決まった東京の講道館、第1回全日本視覚障害者柔道大会にあまり考えずに参加したら4段5段の人がいて、ぼろぼろに負けました。完敗でした。そこでやめようと思ったのですが、1988年(翌々年)ソウルパラリンピックの年に視覚障害者柔道が正式種目になり、その第2回大会が予選会の位置づけになる大会になりました。それが全日本大会であり、パラリンピックが世界大会でした。よしやったろうと思いました。でも、ここでもまた、ボロボロに負けました。

気さくに応じてくださる松本選手

その当時は、盲学校プラス、長居障害者スポーツセンターに盲学校1年のときから通っていました。そこの4つ上の先輩が、第2回の全国大会で優勝して、パラリンピックでも銀メダルを取って、でも先輩でしたが、全然強くありませんでした。ごめんなさいね、先輩だけど(笑)。彼は自分より軽量級の選手でした。こんなレベルでその彼が銀メダルを取って、自分が取れないはずがない。自分も行きたい、メダルがほしい、そう思いました。

その後もだらだら柔道を続けましたが、ソウルパラリンピックには出ることができませんでした。次はバルセロナ。予選会で3位(国内)だったのでだめでした。優勝者しか出場できないのです。4年後、アトランタ大会。予選会では2位でした。ここまで来たら次のシドニーに出たいと思いました。それが目標になってきました。その4年間はがむしゃらに練習し、寝ても起きても柔道のことを考えていました。そして、シドニーに出ることができたのです。

その時、38歳でした。20歳で柔道を始めて18年経過していました。ソウルからでも12年経過しています。

目が見えなくなる恐怖と、自分自身への葛藤、そして仲間との出会い

松本.高校1年の終わりの春休みに手術をしました。右目の眼圧を下げる手術です。でもすぐに右目は見えなくなりました。そしてどんどん左目も見えなくなってきた。それで視力が落ちると共に高校時代はできないことだらけになってきました。自分の能力が奪われる感じがしました。

―反発することで保っていた自分―

松本.クラス対抗のバレーボールがあった時も、視力が悪くてどんくさい、そのうちに「こんなん邪魔くさいの出れるか!」と、反発してやめてしまうことも多かったですね。ただ、当時、目が悪いことを周りに言うのが嫌でしたね、僕は――。周りの人間に気づかれるのも嫌でしたし、変に同情されるのも嫌でした。なので、誰にも言いませんでした。

そのため、2年生の時に付けられたニックネームが、「怠慢」でした。意味は2通りあると思うけど、喧嘩っ早いという意味もあるかもしれないけど、僕の場合はさぼるほうの意味でたいまんでしたね。

―見えなくなるということ―

松本.そのうちに、たとえば視力低下で、3年生の時には、もう黒板も見えなくなる。3年生からは黒板も見えない。教科書もノートも見えなくなってきました。見えないから、毎回、友達のノートを借りて写していました。そのうち、友達のノートすら見えなくなり、コピー機で最高に濃くなるようにコピーしました。それで家に持って帰って、スタンドライトの明かりを一番明るくして、目を近づけたらようやく見えました。

さらに原付きや自転車も乗れなくなり、3年生にいたっては夜も歩けなくなったのです。 DIY(自分で工作したりなど)がとても好きで得意でした。小学校で言うならば、図画工作の工作部分。けど、そういうこともできなくなり、自分の持っている能力が、どんどんできなくなってくる。そのつらさが――、そして視力がどんどんどん落ちていきました。

― 一人で抱え込んでいた視力低下の悩み―

松本.当時、親や先生も視力が悪いというのは知っていましたが、親ですら、そこまで悪いということは知りませんでした。ずっと。もちろん眼科にも行くのですが、一人でずっと、抱え込んで、日々視力が落ちていく。高校を卒業する段階で、文字、墨字を見えるか見えないかの「ぎりぎり」でしたね。

高校卒業する時に勉強を全然してなかったので、英語と数学の単位を落として、英語はすぐ追試で受かったのですが、数学は追試でもだめでした。追追試になりました。卒業式の前日に。それで、その日! 今でもよく覚えています。2月の半ばぐらいだったのですが、外がめちゃめちゃ晴れわたっていたんですよ。だから、明るいから、紙がよく見えたんです。テスト用紙が何とか見えた。もしその日に曇っていたりしたら、紙が見えなくて0点です。あの日晴れていたから卒業できた。ラッキー、なのかなぁ。なにかわからないけど。そんなこともありました。

―卒業後、行く当てのない自分―

松本.高校出てからはもう、文字が見えるか見えないか。緑内障というのは視野が狭くなってくる、横からかけていくんですね。で僕は右目が見えない。左目だけで、内側からどんどん欠けていく。人間は文字とか細かいものを見るのは目の正面なんですね。正面からずれたら風景とかまわりの色とかはわかるけれど、細かい文字とかはわからないんです。僕の視野は高校を卒業するくらいの時に、徐々に内側からかけていって正面を通り越したくらいでした。あとは左のほうしか見えない。僕は何もなしで卒業しました。友達は大学行くなり就職するなり、浪人するなりしましたが、自分は次の進路がありません。1年間ぶらぶらしました。

父親がしてた土方の仕事を手伝ったりしましたが、そこまで目が悪くなっているとは父親は知らないので、「お前はどんくさい」とケチつけられたりして、「そんなん言うんやったら、もう行かない」と言ったりしてね。後は一人、家で……。

このまま視力がゼロになってしまったら……。世の中に盲学校とか視力の悪い人とかいているのは知っていました。これはもちろん偏見なんですけど、当時を振り返ると。そういう人たちとは自分とは別世界の人という感覚を持っていました。自分もどんどん目が悪くなっていくのに、その人たちとは何か違うんだという発想をずっと持っていたんですね。

―死を考えるほど落ち込んでいった自分―

松本.自分はどんどんどんどんこのまま、目が悪くなったら、見えなくなったら、みなさんと一緒で何もできないと思っていたから、家にずーーっと一生、このまま部屋で閉じこもっているだけかと思ったら、生きていく気もしないし、見えなくなったらあとは、死ぬだけ。どうやって死のうか、そんなことばかり考えていました。19歳のころなんかは――。

―学校でも居場所のなかった自分―

松本.そのころ、誰にも相談できずに。高校の先生なら逆に何かアドバイスとか、何か言ってくれたらよかったのですが。逆に「さぼってばっかりいよる」。親に対しても「松本は目が悪いことを言い訳にさぼってばっかりいよる。そんなんやったら学校辞めてもらわないかんな」とかね。呼び出されてそんなこと言われたりして。自分身の置き場がない。ずっとそんな状態でした。

―障害者手帳を内緒でとってみた―

松本.高校を卒業して6月。卒業してすぐに、眼科で他の患者さんから障害者手帳の話を聞いたんです。電車賃が安くなるとか、僕ら視覚障害者だったらテープレコーダーをもらえるとか。それならと思い、親に内緒でね、18歳の僕が、障害者手帳を取りに行ったんです。

―初めて語った自分の障害-日本ライトハウスとの出会い―

松本.その区役所の福祉課の担当の人に会い、初めて他人に自分の障害のことをしゃべったんです。手帳を取ることができ、12月ごろまた用事があって役所に相談に行った時に、「大阪の放出にある、日本ライトハウスというところで、視覚障害者のリハビリしているよ。そんなんあるけど、見学してみたら?」と言われて、他になんにも生きるすべがなかった僕は「そしたら行ってきます」と言って1人で行きました。

2月でした。見学のつもりで行ったら、面接みたいになって、自分の状態、目の悪い云々を話したんですね。そしたら、「ぜひともここに入って訓練しなさい」言われました。次の年度、4月からそこに通うようになりました。そこで何をするかというと、目の悪い人用の点字を習ったり、白い杖を使った歩行訓練とか、日常の布団の上げ下ろし、コーヒーの淹れ方とか、洗濯をどうするか、そういう日常生活の訓練をするところだったんですね。

―絶望感で涙した日―

松本.4月のある日、そこには布団をもっていかないといけなくなりました。寮ですから。親父に頼みました。「布団をもっていかないといけないから。ついてきてくれ」と。その、行く日に自分の部屋で、僕は泣いていたんです。

言葉悪いですよ。偏見なんですけれど、「なんでそんなところ行かないといけないんだ」と。福祉事務所を通して、本当に行き場がなかったから、自分で決めてきたのに、でも当日、なんでそんなところに行かないとならないんだと、悔しくて悔しくて涙を流しました。

―日本ライトハウス-初めての仲間との出会い―

松本.日本ライトハウス、大阪市鶴見区の放出にあります。そこに入ったら、6人部屋だったんです。最初の日。その6人、視覚障害者の人ばかり、日本全国からいろんな人が集まっていました。そこで初めて自分のこと(気持など)を、人に話せました。仲間がいたのです。

―気持ちを語り合うこと、言葉で語りきれない大事な居心地感―

松本.今まで一人で抱え込んでいた苦しい気持ちを、そこではしゃべることができました。自分は一人じゃなかった。目が悪い人はほかにもいっぱい居た。それが分かって、その日の夜は、胸の「つかえ」が取れた。そんな感じでした。

―生きていけるということ―

松本.前年に日本で初めて全盲の弁護士さんが生まれました。竹下義樹さんという方ですけど、今でも京都や東京のほうで活躍されています。そのほか、目が悪くなって学校の先生をしている。目が悪くなってコンピューター関連で働いている人もいます。要は目が悪くなっても「生きていけるんだ」ということを、僕はその日に知ったんです。

その日の朝までは、目が悪くなったら生きていけない。部屋にこもるだけしか思ってなかったのが、その日からどん底から生きていく希望の光が差し込んだのです。その日から僕は変わりました。

そこで半年間、訓練しました。11月くらいに訓練中に全盲になり、翌年からさっき言った盲学校に入りました。

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ペルオンとは?

ペルオンはホープグループ、ミッション株式会社を母体にしたペルオン実行委員会が制作してるポータルサイトです。

障害の当事者が作る当事者目線のサイトが作れないかと思い、サイトを立ち上げました。ペルオンという名前はPersonnes handicapées(ペルソンヌ・オンディキャピー)の略で、障害者仲間という意味からとりました。

当事者会・支援団体・家族・地域・職業・年齢などの枠を超えて、障害者に関係する全ての人が連携して、さまざまなことにチャレンジし、障害者の可能性を探ってまいります!

ペルオンに興味を持ったあなた!もうすでに、仲間なんです。

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